走る人になって気づいたことの一つ

走る人同士の垣根が低いこと

これは仕事でもプライベートでも互いにランナーと分かれば共通の言語で会話ができたり、

リアルなランコミュニティの場で一緒に走ればすぐに仲間になったり、

簡単にSNSで繋がって定期的にランニングに関わる情報交換をしたり

そんなことが、ごくごく自然に、あちこちで発生している

これってよく考えるとスゴいことではありませんか??

感覚的には犬の散歩中に出会う愛犬家さんとの関係に近い部分もありますが、少し違います

その場で軽い挨拶を交わし、互いのワンちゃんの話のことで盛り上がることもありますが、

同じコミュニティの仲間というほどの感覚でもないし(そういうコミュニティもあると思いますが、少し狭いというか閉鎖的なイメージがあります)、

ほぼ初対面でわざわざSNSで繋がり、散歩の時以外にもワンちゃんの話題を交換することは稀です

と言うか、少なくとも僕も愛犬家ですが、そういう繋がりはほぼありません

では、どうしてランニングではそんな現象が発生するのか

僕なりに理由を考えてみました

その1、走ることの魅力を知っているという共通認識

その2、生活の中に走ることのリズムを感じる親近感

その3、心身の健康が担保されていることの安心感

1つ目は、走ることの魅力を知らない人にそれを伝えることがとても難しい、という事実の裏返しが前提としてあります

走らない人から「どうして走るのか」「走ることは面白いのか」と質問された時、その疑問に対して相手が100%満足する明確な回答はまずできません(良い説明があれば教えてほしいです、関連記事はこちら

自分が好きなことを、家族やごく親しい人にちゃんと理解されていないことは、まあまあストレスなことです

走る人はこのような経験を少なからず繰り返しているはずなので、走ることを話すときに相手が走る人であると本当に気が楽です

このように、走ることの魅力を知っていることの共通認識は、じつは走る人にとって存外に大きいと思います

2つ目と3つ目は、1つ目のさらに先の話になります

まず2つ目ですが、よく走る人は、1週間や1日の生活のリズムを「走ることを挟みながら」組み立てていることが多い気がします

プロでない限り、生活の中心には仕事やら学校やら家庭があるわけですが、それでもその隙間や邪魔をしない範囲の中で、「隙あれば走ることを組み込む」ような思考というかリズムを持っています

このリズムを相手の背後に感じると、妙に親近感や同士のような感覚を覚えるものです

そして3つ目は、深層心理の話です

ランナーは大抵どこかしらに痛みを抱えています

あるいは今は元気でも、少し前まではあそこを痛めていたとか、ここは慢性的に良くないとかも日常茶飯事です

ところが、ランニングの話をするランナーは、多少の痛みはあっても「基本的に走ることができる、あるいは一時的には走れなくともそのうち走れるようになる人」です

つまり走ることができる人、もしくは走ることができる可能性のあるレベルの、一定以上の健康状態を保持している人が前提ということです

これは身体面だけでなく、精神面でも同じことが言えます

ですので、一緒に走る行為をする仲間たちに対して、ランナーは互いの心身における一定以上の良好なコンディションを無意識のうちに感じ取り、そこに一つの安心感が醸成される、なんてメカニズムもあるのではないでしょうか

そんなこんなで、走る人たちのつながりが自然と広がっていくのではないかと僕は思います

つづく

投稿者
KUGE RUN

九郎

コロナをきっかけにジョギングをはじめる。 「人はどうして走るのだろうか?」 と思いながら普段は地元の江の島周辺を走り、 ときどき各地で旅ランを楽しんでいる。

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