
初めてフルマラソンを完走した翌日のこと。
疲労のために全身が気だるく、足はつま先から付け根まで、シューズやソックスによる擦れから経験したことのない腱の張りや極度の筋肉痛があり、どこがどう傷んでるのかよくわからないくらい、とにかく体中がボロボロ。
立ち上がるにも少しの段差を上り下りするにも手すりが必要で、通勤など社会復帰が危ぶまれるレベルの状態でした。
走る前からこうなることを想定して、翌日は休暇を取得していたものの、レース二日後には、ボロ雑巾のような身体で出社した記憶があります。
また、初マラソンは、身体だけでなく、心に対しても強烈な残影を刻みました。
食事やお茶をしているときや、仕事をしているときなど、ふとした瞬間にマラソンの記憶が甦り、どこかフワフワと浮世離れするような感覚になることがありました。こんな調子がしばらく続きました。

そんな体のダメージや心の中の残影も、時間の経過とともに徐々に薄れていきました。
やがてレースから2−3ヶ月が経つ頃には、ドーパミンの働きのせいか、これらの薄れつつあるものを再び確かめたくなっている自分がいました。(関連記事はこちら)
気がつくと、その後、2回目、3回目とフルマラソンを走り、やがてウルトラマラソンに挑戦し、今はトレイルを走ることに至っています。
100kmのウルトラマラソンのレース後のダメージは尋常ではありません。
それでも、初めての時は「おいおい!」と身体がびっくりしていたものの、2回目になると1回目のことを記憶していて耐性のようなものができ、レースの翌日にはスタスタと歩くことが出来るようになりました。
とは言え、肉体が完全に回復するのには、普通は1ヶ月くらい要すると言われています。体の深部のダメージはなかなか取れないからです。これは毎回、実感としてあります。

一方、長時間のレースにおいて10時間以上も非日常的な世界を体験することは、残影として僕の中の奥底に何かが強く刻み込まれます。
レースのスタートからゴールまでの間、このペースでいいのか、最後まで走れるのか、この部分の調子がおかしい、あそこが痛い、ここも痛いなど、フィニッシュに向けて、心の中で自分自身との対話が絶えず続くものです。
また、自分の中だけでなく、外に対する感覚も研ぎ澄まされる状態となります。このため、沿道の応援や周りの景色に対して敏感になり、日常で味わうことのない様々な強烈な印象が残ります。(関連記事はこちら)
これらは全て自身の内側での出来事というか、極めて個人的なものです。

このような感覚は「ランナーあるある」だと思いますが、一般的にはどうなのでしょうか。
僕の経験の中では、精神的には、学生時代にディンギーセーリングの練習で毎週末に海に出て、平日は学校やバイトの日常生活を過ごしていた時の感覚に近いです。(関連記事はこちら)
肉体的には、ジムで強度の高い筋トレをして、その後しばらく筋肉痛が残ることを人知れず繰り返すのと、近い感じでしょうか。
そして、このような感覚と行為の例は、身体を動かすことだけでないと思います。音楽、芸術、ゲーム、ギャンブル、お酒、食事、推し活など、人それぞれ色んなカタチがあるでしょう。

先日、久しぶりにブラッド・ピット主演のファイトクラブという映画を観ました。この作品を最初に見たのは20年以上も前で、その後にも何度か鑑賞した記憶があります。
今回あらためて走る人になってこの映画を観て、タイトルとなっている「ファイトクラブ」の存在と目的が、今の僕にとってのランニングに相当するような気がしました。
ネタバレになるのであらすじは書けませんが、反社会的な思想や行動は別として、この作品で描かれている人知れず闇の中で闘い、傷つき、そこに生を確かめ、己を鍛錬し、仲間との精神的な繋がりを感じる、このような構図がランニングを通じて感じる世界と似ているのではないかと思ったのです。
「なぜ人は走るのか」
走る人になって以来のテーマに対する一つの考察の話でした。

つづく