「好奇心というのは、生命を賭けて挑む行動に裏打ちされなければ、生きる感動としてひらかない。だから、それはただの『お遊び』では駄目なのだ。全生命、全存在を賭けて、真剣に、猛烈に遊ぶのでなければ、命は燃えあがらない。いのちがけの『遊び』と、甘えた『お遊び』とは、全く違うのである。」

岡本太郎氏の「自分の中に毒をもて」の一節に書かれています。本当の意味とは違うと思いますが、僕はこれを読んだとき、「なぜ自分はこれまでセーリングやサーフィンや山歩きやランニングを志向してきたのか」を説明してくれているように思いました。

野球もサッカーも、ゴルフもテニスも、観てもプレーしても楽しい。僕はどれも大好きです。バスケやラグビー、水泳や卓球も然りです。

けど、なにか欠けている要素があります。

そのことを頭のどこかでぼんやりだけど、確実にずっと感じてきたものの、自分の中で明確に言葉にして説明することができませんでした。

現代社会の中で、日頃から生命の危険から遠く離れたところに身をおいていると、自分が生きていることを感じる瞬間は多くはありません。

ここで言う「生きてること」とは、ニュースや話で見聞きする他人の生死のことでなく、自分の身の周りにある生死のことです。

サーフィンやセーリングは「海」、そして登山は「山」、

それぞれ自然のフィールドが舞台となります。

もちろん僕が波乗りするのはハワイのような大波でもなければ、外洋をヨットで航海するわけでもありません。山と言っても日帰りの低山のハイキングです。

一方、僕たちが暮らしているところは、幾重もの安全柵に囲われた自然から遠く隔絶された世界です。そんな守られた日常世界から、一歩、いや、半歩でも外の世界へと踏み出すだけで、DNAに刻まれた身体の中の奥に眠っている「自然への畏怖」を簡単に思い起こすことができます。

これはこの世に人類が誕生する前から備わり続ける、生命体の生存本能のレベルの話です。

そして、その自然のフィールドで活動をすると、好むと好まざるに関わらず、僕たちは時としてそこで剥き出しの自然を垣間見たり、生命と触れ合う場面に遭遇します。

岡本太郎氏が表現した「生命を賭けて挑む」は少々おおげさな表現かもしれませんが、肌感で賛同できました。

もちろん人によって考え方や受け取り方は異なると思います。ただ昔から自然をフィールドとするスポーツが好きな僕には、目から鱗というか本当にしっくりきたのです。

このように、僕にとっては野球やサッカーとサーフィンや山登りとの間にある違いが説明されていると思ったのですが、果たして、ランニングは生命を賭けて挑む「遊び」と言えるのでしょうか。

それぞれの人の体力や走り方へのスタンスにもよりますが、普通に生きる中で走ることと無縁になった現代人が、例えば、体力が下り坂となって久しい年齢でフルマラソンに挑戦することは、ある意味で生命を賭けて挑むに近しい行為と言えると思います。

もちろんフルマラソンを走ったからといって実際に死ぬことはまずありません。生死の界を彷徨いながらゴールを目指すような危険な競技でもありません。

ただ、マラソンを走る行為の中では、覚悟を持ってありのままの自身を曝け出すというか、日頃使われることのない自分の中にある生命維持装置を稼働させ身を削ってゴールへと足を進めるような、僕にはそんな感覚があります。

少なくとも、初めてのフルマラソンの40km付近、気温30℃で朦朧とした意識の中で、淡いブルーの日本海の海原を目にしながら、ただひたすらに足を前に運ぶ作業を続けているその瞬間、ランナーズハイのその先にある「生への興奮」のようなものを僕は感じました。

体力も時間も先細りの五十路の身ですが、だからこそ命を燃えあがらせるような「遊び」に、僕は時間を費やしていきたいと思います。

づづく